学会からのお知らせ


*4月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。(詳細は337号をご参照下さい)
テーマ:中世教皇庁のユダヤ人観──排除か受容か
発表者:藤崎 衛氏
日 時:4月23日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学赤レンガ1号館2階右部屋
参加費:会員は無料,一般は500円

*春期連続講演会
 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)。
「地中海世界の歴史,古代〜中世:
 異なる文明の輝き」
4月30日「古代ギリシアと地中海世界:“古典古代“の誕生─美術の視座から」
篠塚千恵子氏
5月7日「古代ローマと地中海世界:ローマ帝国の遺産」          島田誠氏
5月14日「ビザンツ帝国と地中海世界:東地中海における美術の変容」   益田朋幸氏
5月21日「ゲルマンと地中海世界:西ローマ帝国以後の新秩序,古代から中世へ」
高山博氏
5月28日「中世イスラームと地中海世界:華麗なるイスラーム帝国の繁栄」 私市正年氏

*第35回大会
 第35回地中海学会大会を6月18日,19日(土,日)の二日間,日本女子大学成瀬記念講堂(東京都文京区目白台2-8-1)において下記の通り開催します。
6月18日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶   北村暁夫氏
13:10〜14:10 記念講演
  「Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn──ゲーテとイタリア」 西山力也氏
14:25〜16:25 地中海トーキング

  

「地中海の女」
   パネリスト:桜井万里子/鷹木恵子/瀧本佳容子/村松真理子/司会:木島俊介各氏
16:40〜17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総 会
18:00〜20:00 懇親会
6月19日(日)
10:00〜12:30 研究発表
  「ナイル水源からエデンの園へ──初期キリスト教教会堂装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について」田原文子氏/「ドミティッラのカタコンベの巨大人物像──新発見壁画とその新たな考察」山田順氏/「ビザンティン聖堂装飾の変容──諸聖人像からみるプログラムの歴史」海老原梨江氏/「19世紀フィレンツェにおける都市改造──建築家ジュゼッペ・ポッジの計画と決定」會田涼子氏/「観光絵葉書に現れるファシスト党支部とファシズム建築・都市──1920〜40年代のプロパガンダとリットリオ塔からイタリア初期高層ビル発生への流れ」河村英和氏
13:30〜16:30 シンポジウム
  「さまよえる地中海」  パネリスト:石川清/武谷なおみ/畑浩一郎/堀井優/三浦篤/司会:陣内秀信各氏

*会費納入のお願い
 新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月25日(月)に引き落とさせていただきます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
 退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月15日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続となります(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,4月8日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313










牟田口さんのこと


青柳 正規





 記憶に定かではないが,牟田口さんと地中海学会で言葉を交わすようになったのは30年程前のことだと思う。知り合って1,2年したころ「今年,朝日を卒業しました」という自己紹介の言葉が印象ぶかくのこっている。満足のいく記者生活を送ったが故の言葉だとうらやましく思った。うわさに聞いていた朝日人をまさに彷彿とさせる牟田口さんの鷹揚かつ闊達なお人柄に,まだ40歳に手が届いていなかった私は人生の一つの典型を見いだしていたと同時に,歳の違いをこえた親しみを感じていた。しかも大柄な牟田口さんには大人の風格がいつもただよっており,地中海学会全体の兄貴分のような存在でもあった。
 このため,1981年からは常任委員を10年以上にわたってつとめてくださり,1982年からは事務局長,1993年からは会長に就任された。当時の学会には威勢のよい設立会員がおおく在籍しており,夢ともアイディアともいえないような構想をぶちあげ,学会として実現にむけて積極的にとり組むべきだといった無理難題が牟田口さんにおしよせていた。報道記者としてカイロやパリなどの海外経験も豊かで,すくなくとも学者たちよりは広い社会と接していた牟田口さんは何が可能で何が夢物語なのかを感覚的に瞬時に判断できたようである。だからこそ,当時慢性的な赤字に悩んでいた地中海学会の収入をいかに増やし,いかに経費を抑えるかという問題には果敢に対処し,その一方で会員の夢を壊さないようこまやかな目配りもおこたることはなかった。
 熊谷組の広報誌に「地中海文化の旅」というコラムをもうけ,会員が順番に執筆するという企画では,企画協力費という名目で学会にお金が入る方策を定着させたのは牟田口さんのアイディアだった。また,大蔵省主計局長や公正取引委員会の委員長を務めた橋口収さんに京セラの稲盛和夫氏を紹介してもらい,十年分の賛助会費を前払いしてもらったのも牟田口さんの功績である。稲盛氏とお会いするときたまたま私も同席させてもらったが,牟田口さんは稲盛氏がはめている指輪をめざとく見つけ,「それが有名な人造サファイアですか」という一言からなごやかな会見になったことをいまでもよく覚え
ている。取材相手にいかに話をしてもらうかというインタビューになれた新聞記者ならではのとけ込みようだと感心したものである。
 世間を大人の目で理解していた牟田口さんだが,もっとも大切にしていたことは新聞記者としての経験にもとづく特に中近東から地中海についての執筆だったようである。大学での授業や学会の世話役など多忙をきわめていたにもかかわらず,おどろくほど多くの著作を世に問うている。新聞記者の時代に著した『地中海のほとり』や『アラビア湾のほとり』は紀行文の名著としていまでも読まれている。また,オスマン朝トルコからのアラブ独立運動に貢献したとして英雄視されているT.H.ロレンスに関して『アラビアのロレンスを求めて』を記し,史実と伝説を峻別し,チャーチルとともに「シオニズムに理解を示し,アラブ人の土地をとりあげてユダヤ人に与える政策に加担した」と糾弾する部分はまさに新聞記者の正義感そのものといえる。
 その一方で牟田口さんはどん欲ともいえる教養人だった。なかでも音楽は第一高等学校のころからの趣味だったようで,『地中海・音楽絵巻』という随筆集まで出版している。おそらく生来の音楽好きをさらに刺激したのが地中海学会における鍋島元子さんとの出会いだったのではないだろうか。チェンバロ奏者の鍋島さんが弾くバッハにはいたく心酔していたようで,彼女の自宅で開かれる演奏会にはかならず出席するだけでなく司会もかってでていた。私も何回かその会に参加させてもらい,加藤周一さんたちと知り合いになることができた。そんな鍋島さんが1999年なくなったときこの『月報』に弔文を寄せている。というより,彼女のために催された音楽葬で牟田口さんが読み上げた弔辞の要旨であるが,深く心に残る一文である。
 明るい人柄でいつも学会の中心にあり,面倒をいとわずに学会に貢献してくださった牟田口さんの,充実した人生は後に続くものの手本でありあこがれである。そんな牟田口義郎さんが本年1月22日,87歳を一期として長逝の途についた。心からのご冥福を祈ります。







研究会要旨

15世紀ヴェネツィアの地図制作と美術


──《フラ・マウロの世界図》〈地上の楽園〉にみる──

佐々木 千佳

12月11日/東京芸術大学



 14世紀末にプトレマイオス『地理学』の写本がコンスタンティノープルからもたらされて以降,世界地図への関心は15世紀初頭のイタリアにおいて頂点に達した。美術家,人文主義者によるネットワークの中で新たな地理的情報が加えられながら合理的世界像が追究されるようになっていた。高度な航海技術を誇ったヴェネツィアでも,海図をはじめとする実用的な地図が多数制作される一方,《ヴェスコンテの世界図》のような書物の挿絵として制作された世界図にも,地理的な正確さや空間への関心の高さが認められる。こうした「マッパムンディ(世界図)」は,15世紀半ばに最後の興味深い展開をみせた。現実世界の地理が象徴的な宗教的世界観の図解の中により深く入り込むようになったのである。科学的合理性と宗教的世界観が相克し,地図制作と美術が密接に結びついていた転換期において,地図が世界を写すイメージとして果たした役割とは一体どのようなものだったのだろうか。
 ヴェネツィア,サン・ミケーレ修道院修道士で地図制作者のマウロによる《フラ・マウロの世界図》(1459年)は,TO図を原型とする構図でキリスト教的世界観を表わす段階から脱し,現実の世界像を描き出そうとしたルネサンス以降の近代的世界地図の先駆とされる。地理学の蔵書を誇る人文主義研究の中心地となったサン・ミケーレ修道院で,マルコ・ポーロやニッコロ・デ・コンティらの旅行者によってもたらされた大陸や都市についての詳細な地理的情報が,196×193cmという大規模な図幅に集約されたのである。制作年代の近い《アンドレア・ビアンコの世界図》(1436年)他,それまでの中世の世界図と一線を画すのは,世界の臍であるエルサレムが中央に位置せず,やや西方に位置する点である。地図上に付された注記の読解からは,正確な緯度と経度を意識し,地形的に忠実であろうとする制作者の意識が明らかとなる。
 しかし決定的な違いは,南の方位を上とし,それまで地図内の最上部(大地の東端)に位置していたこの世の楽園が,東方ではあっても左下(北東)の枠外に円形内の可住世界とは切り離されて描かれている点にある。『創世記』に基づく従来の楽園の描写は,孤立しながらも可住世界の一部であり続けた。この転換は,地理的現実から楽園をいわば追放する,世界の近代的・合理的表象の
決定的到来とみなされても不思議はない。しかしマウロは楽園を完全には分離していない。城壁外に四つの河が流れ込む大地を右側に描き,四大河によって両者を連結させることでこの問題を巧みに解決している。楽園を天と地の中間区域として描くことで,我々の世界と繋げると同時に近づくことのできない場所であることも表明しているのである。これは現実世界と神の領域の意味を併せ持つ土地を空間的・地理的に表すという,地図上のパラドクスを図像的に解決する鮮やかな創意であった。
 注記の中でマウロは,昇天に至る前に魂が救済される場として楽園を位置づけ,正しき信仰者が死後復活を待つ中継地であるとする中世神学の思想に依拠している。祝福された魂は,その後最高天(第十天)の天国へ向かうと考えられていたが,本図では,左上の象徴化された天界図に神の居場所である最高天が明確に表わされている。二つの図は対となり,さらに右下の帯圏図から左上の天界図に至るまでの宇宙の構成が,可住世界の地図とともに一枚の絵の上に提示されているのである。また地上の楽園は天上世界と同一視され,信仰者の魂が天界へと向かう中継的な場所,あるいは天上のエルサレム,修道院の庭,国家のアナロジーなど様々な姿で同時代の美術に登場していた。特に,絵画的な本図の楽園と,彩飾画家レオナルド,ジョヴァンニ・ベッリーニによる囲まれた土地と「生命の木」の表現との比較は無益ではない。こうして同時代の美術家たちとも共有されていた楽園の表象は,政体としてのヴェネツィアにとっても天国との結びつきを喚起するものであっただろう。
 フラ・マウロが描いた世界のイメージは,中世の世界図の伝統的な世界観を継承しつつも,現実の地理と統合し,かつ天上世界の象徴と並置させるという,新たな絵画的創意を組み込んだ意欲的なものであった。地上の東の果てに楽園の存在を表明することは,大航海時代も始まろうという当時もはや不可能であったが,それは必ずしも楽園が失われてしまったことを意味するのではなかった。当時の地図の展示の記録から想定するに,楽園はむしろ観者の目のそばに置かれた可能性がある。こうして,修道士兼「比類なき地理学者」によって「ヴェネツィア共和国のために」描かれたと注記された世界図は,現実の場で想起される楽園イメージと天界の結びつきを提示する機能をも担っていたと想定されるのである。






ポンペイウス劇場の上での一年

京谷 啓徳



 一昨年の10月から昨年9月までの1年間,勤務先からサバティカル休暇をもらい,ローマに滞在する機会を得た。ローマで暮らすのは初めてだったが,運よく町の中心部,サン・タンドレア・デッラ・ヴァッレ教会のすぐ裏手に部屋を借りることができた。サン・タンドレア教会といえばプッチーニの歌劇「トスカ」第1幕の舞台だ。たまたま昨年4月のローマ・オペラ座のトスカは,資料をもとに初演時の舞台を復元するという好企画だったが,第1幕では同教会の内部が,背景の書き割りに忠実に再現されていた。第2幕の舞台であるファルネーゼ宮殿も,カンポ・デ・フィオーリを抜ければ目と鼻の先で,トスカがローマのご当地オペラであることを実感させられた。
 私の住んだ建物は1600年頃に建てられた庶民の住宅だ。古代にはポンペイウス劇場があった場所で,建物の基礎は劇場の遺構をそのまま使用しているのだと,家主が誇らしげに教えてくれた。確かに,近所にあるホテル・テアトロ・ディ・ポンペーオは,地下が劇場の遺跡になっていて,そのスペースで朝食が楽しめることを売り物にしている。芝居好きの我が身にとって,古代劇場の上で生活できるというのは,何とも愉快なことだった。遺跡の平面図と現在のローマ地図を重ね合わせては,我が家は楽屋の上あたりだろうかなどと想像して楽しんだものだ。
 我が家のすぐ近所,古代にあってはポンペイウス劇場前の列柱回廊だった場所の一角に,アルジェンティーナ劇場がある。ひょっとするとカエサルが暗殺されたあたりに相当するのかもしれないこの劇場は,ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」が初演された由緒ある場所で(ただし初演は大失敗だったので,劇場にとっては必ずしも名誉な話ではない),ゲーテも謝肉祭シーズンにここで芝居を見物したと語っている。1年間の滞在中,アルジェンティーナ劇場では様々な演劇を楽しんだが,なかでも印象的だったのは,何かと話題の海老蔵丈が,ロンドン公演のあと,当劇場で2日間だけ歌舞伎公演をおこなったことだ。私は両日とも足を運んだが,特にその初日は,ナポリターノ大統領やアレマンノ市長らも臨席の盛況振りで,躍動感溢れる海老蔵の狐忠信にローマっ子たちは大喝采を送っていた。
 さて,先のサン・タンドレア・デッラ・ヴァッレ教会からヴィットリオ・エマヌエレ2世通りを渡って北側に抜けると,有名なナヴォーナ広場に出る。この広場は
いつも観光客や地元の人たちで賑わっている。謝肉祭の時ぶらりと訪れると,木組みの仮設舞台でゴルドーニの喜劇が演じられていた(何故ローマでゴルドーニなのかは最後まで謎だった)。立見のうえ,途中からは小雪も舞いしんしんと冷え込むのが辛かったが,何故か立ち去りがたく,結局最後まで見物してしまった。あの吹きさらしで多くの観客の足を引きとめたのは,役者の腕が良かったのか,それとも謝肉祭の高揚感のなせる技だったのか。
 とりとめのない記事で恐縮だが,今も忘れられない不思議な体験を記して筆を擱きたい。イタリア滞在も終わりに近づいた9月,友人と連れ立って南イタリアを旅行した。プーリア州はまったくの初体験で,まずバーリの聖ニコラウス聖堂にお参りをした後,バロック建築を見学するためさらに南下し,レッチェの町を訪れた。町中の建築物を見尽くした二日目,これで最後と,カール5世の為に建設されたという凱旋門を抜けて町の外に出て,聖ニコロ・エ・カタルド聖堂に向かった。あいにく目当ての聖堂は閉まっていたが,せっかくここまできたのだからと,併設の墓地を覗いて帰ることにした。入口近くのたいそう立派なお墓に,先客が足を止めている。何事ならんとみてみると,それは往年の名テナー,ティート・スキーパ(1889〜1965)の墓だった。スキーパは日ごろから私の最も敬愛するテナーの一人だ。マスカーニの歌劇「友人フリッツ」から「さくらんぼの二重唱」の名録音を皆様にもぜひお聴きいただきたいところだが,それはともかく,この邂逅に不思議な縁を感じつつ墓を辞去した。
 さてその日の夕方。ローマに戻る汽車を待つ間,町の中心から駅までを,地図も見ずにぶらぶら散策していると,いかにも下町風の界隈に迷い込んだ。幼少期のスキーパが貧家に育ったというのをどこかで読んだことがあり,こんなところだったのかしらんと辺りを見回したその瞬間,何と私たちは,スキーパの生家の前に立っているのだった。何の変哲もない民家の壁に嵌め込まれた,ただ一枚の小さなプレートが,そのことを告げていた。それを探し求めたわけでもなく,そもそもこの大テナーがレッチェの生まれであることすら,先ほど彼の墓にばったり出くわすまで知らなかった私は,何者かに導かれるかのように,スキーパ巡礼を果たしていた。それは劇場遺跡の上に1年暮らしたご利益か,はたまた前日に詣でた聖ニコラウスの霊験だったのか。






非業のカリフ・ムッタキーとその時代

柴山 滋



 936年にアッバース朝第20代カリフ・ラーディーによってイブン・ラーイクが大アミールに任命されて以来,政治の実権はカリフから大アミールに移行したとされるが,この時期のカリフは実際どのような状態にあったのであろうか。その一例として,同朝第21代カリフ・ムッタキー(位940〜44)を取り上げる。
 ムッタキーの本名はイブラーヒーム,父親はアッバース朝第18代カリフ・ムクタディル,母親はハルーブ(またはザフラ)と呼ばれた女奴隷であった。ラーディーが死去した時,彼は当時の大アミール・バジュカムの意向でカリフに就任し,バジュカムの地位をすぐに承認したが,941年4月に彼が殺害されるとムッタキーはその資産を差し押さえたという。
 その後バリーディー家が一時バグダードを占領したが,彼らが3週間余りでバグダードを去ると,ムッタキーはバジュカムの軍隊の指揮官であったクールタキーンを大アミールに任命した。しかしクールタキーンの統治はバグダード市民に不評であったため,ムッタキーはシリアに逃れていた先の大アミールでもあったイブン・ラーイクを呼び戻して彼を再度大アミールに任じた。
 他方,勢力を回復したバリーディー家が再度バグダードに接近すると,942年2〜3月にムッタキーはイブン・ラーイクとともに北方のハムダーン家の下に逃れた。しかしタクリートでカリフ一行と会見したハムダーン家のアルハサンがイブン・ラーイクを殺害したので,ムッタキーは彼を大アミールに任命してナーシル・アッダウラのラカブを授け,また彼の兄弟のアリーにもサイフ・アッダウラのラカブを与えた。その後,ムッタキーは彼らとともにバグダードに下り,バリーディー家を追放した。しかしバリーディー家が三度目にバグダードを窺うと,ハムダーン家のサイフ・アッダウラがバリーディー家を打ち破り,次いで彼はワーシトに進軍・駐屯した。
 しかしワーシトにおいて部下であったトルコ人将軍たちが反旗を翻してサイフ・アッダウラを追放すると,その将軍たちの中のトゥーズーンが実権を握った。943年6月にトゥーズーンがバグダードに進軍すると,ナーシル・アッダウラはモスルへ去った。トゥーズーンがバグダードに入城すると,ムッタキーは彼を大アミールに任命した。しかしその後,両者間に不和が生じ,ムッタキーはハムダーン家の保護を求めて再びバグダードを去った。その結果,943年末から944年3月にかけてトゥー
ズーンとハムダーン家の間で二度の戦闘が行われ,トゥーズーンがハムダーン家を打ち破った後にムッタキーの仲介で両者は和解した。この時ムッタキー自身はハムダーン家の拠点であったモスルからラッカに移動し,同家との確執が明確になるとバグダードへの帰還を望み,そのためにトゥーズーンとの交渉を開始した。944年9月にはエジプトを統治していたイフシード朝のムハンマド・ブン・トゥグジュがラッカに来て,トゥーズーンに対する忠告を行ったが,ムッタキーはその忠告を無視した。9月半ばにムッタキーはラッカからバグダードに向かい,10月にバグダード郊外のシンディーヤでトゥーズーンと会見した。その時ムッタキーは家族・随行人とともにトゥーズーンの部下たちに逮捕され,眼を取り出された。これにより彼は,第19代カリフ・カーヒルと第22代カリフ・ムスタクフィーとともにこの時期に眼を取り出された3人のカリフの内の一人となった。眼を取り出されたことは,当時の慣例でカリフであることの資格を失ったことを意味した。なお,この時ムッタキーは大声で泣いたが,その泣声をかき消すためにトゥーズーンは部下たちに太鼓を打ち鳴らすように命じたという。ムッタキーはその状態でバグダードに入り,ムスタクフィーに忠誠の誓いを行い,自ら廃位宣言を行った。その後,彼はシンディーヤの対岸の島に送られ,968年7月に死亡するまでそこに監禁されたという。
 このようにカリフ・ムッタキーの時代は大アミールに政治の実権が移る一方,大アミール自体も5人交代しており,その地位は必ずしも安定したものではなかった。そのような状況を利用して彼はカリフの従来の権力を多少とも回復することを試みる活動を行ったが,そのことで最終的に廃位されたといえよう。ムッタキー自身は誰一人裏切ることなく,至高なる神以外は仲間にしなかった程,高潔な性格の人物であった。さらに「私の飲み仲間はクルアーンだ」と言ったという逸話も伝わっている程,礼拝と斎戒をよく行い,決して酒を飲むことはなかったという。しかし彼の治世中にバグダードの象徴であった円城都市内の緑のドームが大雨の夜に崩落し,また前例のない雨不足で異常な物価高となり,バグダードの人々は遺体を食べる程まで追い詰められたという。これらのことは自然現象を原因とするものであるが,アッバース朝カリフの権力喪失を象徴するものでもあったと言えよう。






チュニジアのジャスミン革命所感

鷹木 恵子



 去る1月14日,日本では従来ニュース報道の対象となることも稀であった北アフリカの小国チュニジアにおいて,23年間にわたる独裁政権が崩壊するというアラブ諸国では初めての民衆革命が起こった。チュニジアでのこのジャスミン革命を発端とし,その影響がエジプトを始め,多数の中東諸国にも波及するなか,連日,多くの報道・解説が為されていることから,ここではやや視点を変えてチュニジア・ジャスミン革命をめぐる逆説性ということに焦点をあてて,二・三の所感を述べさせて頂くことにしたい。
 チュニジアは,中東諸国のなかでは拙編著『チュニジアを知るための60章』(明石書店,2010年)の冒頭でも述べたように,従来治安のよい平穏な国家で,特に治安の良さは筆者も人類学の調査で各地を歩き回るうえで何よりも有り難いことであった。治安の良さは強権の裏返しであった面もあろうが,隣国のアルジェリアで凄惨なテロが吹き荒れていた1990年代には国民の多くが強権体制をむしろ評価し歓迎しているところがあった。今回のジャスミン革命は,逆説的ではあるが,一つにはそうした平穏で治安が良い国であったからこそ,国民が一つの事件に対して敏感に反応し,一気に雪崩を打つように起こった革命であったようにも考えられる。路上の野菜売りの貧しい青年の境遇は国民の誰もが隣人のように容易にイメージできるものであり,その青年が当局の横暴な取り締まりに抗議して焼身自殺を図ったという事件は,平穏な国の国民であるからこそ,ただならぬ衝撃をもって受け止めることとなり,青年の憤りは人々の心の琴線に触れることとなった。
 そしてその青年の焼身自殺は,多くの失業している若者たちが共有する不満や怒りの矛先を政府へ,さらにはデモ参加者を過激派やテロリスト呼ばわりした最高権力者のベンアリー大統領へと向けられることとなった。
 チュニジア社会は,高齢社会である日本とは対照的に若齢社会であり,人口の46%が25歳未満の若年層で占められている。こうした人口構成は多少なりとも他の中東諸国にも共通する特徴で,世界銀行はすでに2004年の報告書において,中東北アフリカ地域では2020年までに1億の新たな雇用創出が必要であると指摘していた。チュニジアは2008年から地中海南岸諸国では最初のEUとの完全な自由貿易協定国となったが,その一方で,失業対策や雇用創出,貧困削減に全く無策であった訳ではなく,起業のための少額融資プログラムや貧
困対策の基金を創設して対策も講じてきた。そしてこうした政策発表の折に元ベンアリー大統領が頻繁に発信していた国民へのメッセージの一つが「連帯」ということであった。事実,少額融資を統括する国立の専門銀行は「チュニジア連帯銀行」と呼ばれ,また低開発地域に投資するための基金も「国民連帯基金」という名称であった。ジャスミン革命は,この点でも逆説的であるが,元大統領が力説していた「連帯」ということが遺憾なく発揮されて起こり,実際に民衆は一致団結し,さらには民衆と軍もが連帯して,最終的には大統領とその一族を国外へと追放することとなった。
 一青年の焼身自殺と抗議のデモは,インターネットや携帯電話を通じて,瞬く間に連帯するそうした同志を増やし,抗議デモは全国へと広がった。インターネットによる繋がりは国内はおろか海外・世界各地へと広がり,想像もできなかったほどの威力を目下発揮しているが,そうした情報技術教育にこの国で実に熱心に取り組んできたのも,旧ベンアリー政権であった。チュニジアでは,すでに2000年代初頭には情報教育が中等教育のカリキュラムに導入され,旧政権はパソコンを各家庭に普及させるための低金利融資制度も整備していた。そしてそうした情報技術を習得した若者世代が今回の革命へと至る過程で大きな役割を果たしたことについては,再び繰り返し指摘するまでもないだろう。
 そして最後のパラドックスとは,「ジャスミン革命」という名称そのものについてである。ジャスミンはチュニジアを象徴する芳香を放つ白い花であるが,この「ジャスミン革命」という名称は,1987年11月7日,初代大統領ブルギーバの政権をベンアリーが無血クーデターによって交代させたその政変を自ら後にそう呼んだことがあったという名称である。自ら政権の座を掌握した革命の名称が,再び,自らの政権を終焉させることとなった革命の名称として,使われることになったのである。
 しかしながら,今回はただ単に歴史が繰り返されたというのではないだろう。矛盾や逆説性を多く孕んだジャスミン革命に端を発した民衆による民主化に向けた歴史のうねりは,一筋縄ではいかないにせよ,今や中東北アフリカ地域に新たな歴史の幕を切って落とそうともしている。そして私たちはその歴史が動く劇的な瞬間をここしばらく目撃しながら,同時にグローバル時代における世界のまた日本の在り方についても問いただされている。





地中海世界と植物16


洋梨/田中 久美子



 一面に白い花を咲かせた洋梨の木がやがてふくよかな円錐形の実をたわわにつける姿はヨーロッパのいたるところで見られるが,洋梨はもともとヨーロッパ中部・東南部およびアジア西部の,夏に雨の少ない地方に野生し,やがて地域に順応しながら分布を広げた。学名はピルス・コムニス,バラ科の落葉性高木で,りんごとともに有史以前から食されていた。ギリシア時代にはすでに栽培もされており,接ぎ木繁殖や種子繁殖についての記述もある。紀元前60年頃に活躍したディオスコリデスは,薬学書『マテリア・メディカ(薬物誌)』で,洋梨の消散効用と下痢止め効果について記し,ローマのプリニウスは,『ナトゥラリス・ヒストリア(博物誌)』のなかで40種におよぶ洋梨を挙げ,その名の由来や特徴,用途,栽培法について語っている。ローマの梨の多くはそれを育て広めた人々の名や原産地の名を冠しており,たとえばティベリウス種と呼ばれる梨の所以は皇帝ティベリウスがもっとも好んだからという。薬用については,健康な人にも負担がかかるゆえに病人に与えてはならないとする一方で,下痢を抑えるだけでなく毒消しにもなると述べている。
 中世ヨーロッパにおいても,人々が食した果物にまつわる記録の中でりんごと梨はどの種類の果物よりも多く言及されているという。長く,広く食されたりんごと梨だが,神話やキリスト教においてウェヌスやエヴァの持物としてはなばなしい活躍をするりんごにくらべると梨は控えめである。それでもキリスト教美術において,洋
梨は白い花の清らかさゆえに聖母マリアの象徴と解される。また視覚を惑わす特異な描写を披露するカルロ・クリヴェッリが描く聖母マリアの周囲には,洋梨が妙に現実的な影を投げかけている。果実の甘い味わいと豊かな果汁が,「味わい,見よ,主の恵み深さを」と詠う詩篇の言葉を想起させるからだという。
 一方,世俗文学において洋梨は,隠喩に富んだ名脇役を演じる。チョーサーの『カンタベリ物語』の「貿易商人の話」に登場するロンバルジャに暮らす老騎士ジャニュアリは,うら若い妻マイを恋人のダミアンに梨の木の上で寝とられる。「あなた,あそこになっている梨を見ると辛抱ができなくなります。ぜがひでも,死んでもたべたくてなりませんの」とマイにせがまれて,盲目の老騎士は木の上で待ち受けるダミアンという梨にまんまとマイを差し出してしまう。ボッカチョの『デカメロン』でも,「魔法の木の梨」のなかで,夫の目を盗んで恋人と浮気をする口実に梨の木は大きな役割を演じている。洋梨はその実の形から男性性器の象徴となったり,子宮や乳房を連想させることから女性の象徴となって,同様な話がヨーロッパ各地に残っている。民間信仰では,梨は子宝の象徴である。精神分析学的解釈で,梨の夢が性的な意味に解されるのも,その芳香ととろけるような肉質から連想される洋梨の官能性が人々の記憶の底に留まっているからなのだろう。
表紙:Carrara Herbal, c.1400, Egerton MS 2020, f.60