地中海学会月報 224
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        1999|11  




   -目次-

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

 地中海学会では第5回「地中海学会ヘレンド賞」(以下ヘレンド賞,第4回受賞者:渡辺道治氏)の候補者を下記の通り募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円,その他)が授与されます。授賞式は第24回大会において行なう予定です。応募申請用紙を希望する方は事務局までご連絡ください。

ヘレンド賞

一,地中海学会は,その事業の一つとして「ヘレンド賞」を設ける。

二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。

  本賞は,原則として会員を対象とする。

三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その  業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項

・自薦他薦を問わない。

・受付期間:2000年1月10日(月)〜2月10日(木)

・応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

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*第24回大会研究発表募集

 来年6月17,18日(土,日),広島女学院大学(広島市東区牛田東4-23-1)において開催する第24回大会の研究発表を募集します。

 発表を希望する方は,2月10日(木)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局

へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

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表紙説明 地中海:祈りの場12

グリッシアーノのサン・ジャコモ聖堂/尾形希和子

 グリッシアーノは,北イタリア,アルト・アディジェ地方(南チロル)のボルツァーノとメラーノ間,アディジェ河峡谷沿いに山並みが形成する台地の海抜900メー トルの高さにある。ドイツ語とのバイリンガル地帯ではあるが,むしろドイツ語人口の方が多いという場所だ。

 11,12世紀には,イタリアと北方の国々を結ぶ交通上の要地であるこの地方を,増加し続けるサンティアゴ・デ・コンポステラ参りの巡礼者たちが通過していった。重要な道沿い,あるいは峠の近くに,使徒聖ヤコブに捧げられた聖堂が次々に建設され,グリッシアーノのサン・ジャコモ聖堂のように聖ヤコブ(イタリア語でジャコモ)の名のつく聖堂はチロル地方だけで43を数えるという。

 この地方には多くのフレスコ画が保存されており,中にはカロリング朝時代にまで遡るものもある。グリッシアーノのサン・ジャコモ聖堂のものは1200年の初頭に制作されており,ロマネスク後期に属する。

 グリッシアーノの集落までは車で行け,聖堂までは徒歩で20分ほどの道のりである。しかし公共交通手段の利用者は,メラーノからプリッシアーノの村までバスで行き,その先一時間ほど山道を歩かねばならない。プリッシアーノの観光案内所で指示された通り標識を追いながら,山道へと分け入っていく。9月半ばのイタリア最北の山の地方には珍しく,好天の暑い良い日が続いていた。まったく人の気配がない森のスギゴケに覆われた地面を早足で10分も歩くと,汗が吹き出してきた。ようやく下り坂にさしかかった頃,チロル風の美しい宿が見えた。ドイツ語しか話さないと言う宿の主人に,何とかミネラルウォーターを注文し,喉を潤しながら教会堂への道を聞く。指し示してくれたサン・ジャコモ聖堂は,さらに先の緑の丘の上に白く刻まれた一本の道の先にあった。

 南側に穿たれた扉から中に入ると,ひんやりとした空気が心地よい。堂内は暗いが,窓から差し込む柔らかい光で,フレスコ画ははっきりと見える。息を整えようと椅子に坐り,簡素だが力強い絵にしばしの間見入っていた。アプシス上部には四福音書記者の象徴,聖母マリア,洗礼者ヨハネに囲まれた審判者キリスト,勝利門には「イサクの犠牲」の場面が描かれている。シナイ山へ登るアブラハム,イサク,驢馬に薪を運ばせる従者の背景には,頂上を雪で覆われたドロミーティ山脈の嶺々が描かれている。今しがた越えてきたばかりの,あるいは今から越えなければならない山々を絵の中に見出した巡礼者たちは,一層感慨深い思いであっただろう。のちに鐘楼建設のため付加された部分で一部隠されているが,羊を捧げて神に祝福されるアベルと麦の束を差し出して神に拳固で拒絶されるカインが,アプシス両側に見事に描かれている。旅の途上で訪れる山あいの小聖堂は,その小さく親密な空間一杯に描かれた美しいフレスコ画で,巡礼者たちの目を楽しませた。旅人たちは壁画の教えを理解し,敬虔に祈った。そして道中の安全を聖ヤコブに祈りもしただろう。こうして巡礼者たちの守護聖人のようにみなされていく聖ヤコブの生涯がゴシック期になって鐘楼の壁に描かれている。また17世紀に製作された聖ヤコブの木彫像が鐘楼のアーチの下に置かれ,今もなお巡礼者たちを見守ってくれている。

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地理的空間と歴史的時間を移動するベドウィン

鷹木 恵子

 モロッコ南部の内陸オアシス都市ワルザザートは,ドラア川とダデス川との合流地点にある。その地理的条件からも,古くから交通の要所であったが,ほぼ20年ほど前までは静かなオアシス集落であった。しかし1988年に空港が開港され,またこの町のカスバ(城塞)が世界遺産に登録されてからは,周辺にも多数のカスバやクスール(土造りの要塞風住居)があることから,今日では,モロッコ南部の有数の観光地のひとつとなっている。この町はまた,広い沙漠地帯を背景に,古くは『サムソンとデリラ』(1949年)や『アラビアのロレンス』(1962年)の映画収録が行われた所でもあり,その後も『クレオパトラ』(1963年)や『天地創造』(1966年)など数々の名画のロケ地となり,そして1992年には本格的な映画撮影スタジオが開設され,今や失業率の高いモロッコで,多くの職を提供する都市ともなっている。そのため,この町の人口はここ10年ほどの間に約4倍に増加し,現在6万人ほどの人口を抱えるようになっている。ワルザザードの町には,マラケシュやラシーディーヤなど中部地帯からばかりでなく,北部の大都市からも,出稼ぎ者や就職のために移住してくる人々がみられ,加えて近年定住化し始めた遊牧民たちの姿も数多くみられる。

 北アフリカのオアシスで出会う,定住化した遊牧民の人々の表情は,実際には実にさまざまである。定住化して既に二世代を経て,今なお自らは公務員の職にありながら,しかし相変わらずベドウィンという強い意識を保ち続けている人々や,国家の定住化政策により,開墾オアシスに住まうようになったものの,農耕生活には馴染めず,その後外国への出稼ぎの道を選んだ人々もいる。

 そしてワルザザートのオアシスで出会ったあるトアレグの青年の場合は,そうしたなかでは特に定住化という変化に柔軟に適応し,一族の人々とも巧みにネットワークを保ちつつ新しい生活を始めていた。ワルザザードの郊外,約25キロほどのスクラの町に,その青年は自営のコーヒー店と薬草の店をもち,定住化して商店経営のビジネスを成功させながら,観光ガイドとして働く一族の仲間と連携して,土産物売りの商業活動も行っていた。その定住生活の一方で,彼はまた現在でも一年に3ヶ月間ほどは家族とともに,従来どおりのキャラバン交易の移動生活も続けていた。毎年,6月〜8月には,両親や兄弟・姉妹,オジやイトコ,その家族を含む一族40〜45人ほどでキャラバン隊を組み,昔と変わらぬ順路と日程で,ラクダに商品を積み,モーリタニアやアルジェリア南部国境地帯まで向かうというのだ。沙漠へ出るときには,灼熱の太陽から肌を護るために,従来と同じように,インディゴ(藍)の粉末を顔や手足に塗るという。「青い人」とも呼ばれるトアレグの人々は,青い衣装をまとうことからばかりでなく,文字通り,皮膚の色自体がインディゴによって青く染まった人々であった。交易では,モロッコ南部からはナツメヤシの実,サフラン,茶,そして塩塊を持っていくという。そしてサハラからは,かつては銀や織物そして奴隷を持ち帰っていたというが,現在では,古い銃器などの武器や仮面,ビーズ・色石を使った装身具,民具や民族楽器などを,持ち帰るという。しかしその交易のやり方は,現在でもトロック,すなわち物々交換であるという。それら物々交換で得た商品は,ワルザザートやスクラに持ち帰り,今度はそこで専ら観光客を相手に売りさばく。現在ではこうして観光客向けに,骨董品やエキゾティックなアフリカ風の民芸品などを物々交換によって仕入れ,そしてそれを現金を介して,モロッコ貨幣の他に,フランス・フランやドイツ・マルク,米ドルやユーロなどの外貨を介して売却しているのである。彼が経営するコーヒー店の二階には,これまでの収集品のなかでも特に高価な骨董品類,黒人アフリカの仮面や彫像,民族楽器や民具,装飾品が資料館のように並べられていた。そして,そこではさらにAmerican Expressや Visa Cardなどを使った商業取り引きも行われていた。

 今や多くの観光客とまた国際的スターなどを含む映画撮影団などが訪れるようになったワルザザードの町。そこに定住化し始めた遊牧民の人々。その一部の人たちは,こうして新しい定住生活に柔軟に適応しつつ,同時に部分的には過去と変わらぬ移動生活や,古来のキャラバン交易,原初的物々交換での交易活動を今も続けているのである。そして現代という時代に遅れをとることなく,貨幣を介した商業活動,国際的レートで変動する外貨での取り引き,さらに貨幣すら必要としないマネーカードでの経済活動をもこなしている。

 半世紀ほど前までは厳然と存在していた遊牧民は,現在,国家の定住化政策などにより,完全な形で移動生活を送る人々はほとんどみられなくなった。しかし定住化した一部のベドウィンは,地理的「空間」の移動だけでなく,物々交換,貨幣を介した商業活動,そしてそれを超えたマネーカードでの取り引きという,歴史的「時間」の移動をもしながら,新しい生活を営み始めている。

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メッティウス・フーフェーティウスの処刑

日向 太郎

 ロームルス,ヌマに続くローマ第三代の王,トゥッルス・ホスティーリウスがアルバを滅ぼしたとき,彼がこの都市の支配者であるメッティウス・フーフェーティウスをはなはだ残虐な方法で処罰したことは,ギリシアやローマの複数の作家が証言するところである。ローマがフィーデーナエと戦ったとき,メッティウス率いるアルバ軍はローマとの同盟を裏切ろうとした。トゥッルスは勝利を収めたのち,この裏切り者を罰する際に,彼を二台の馬車に縛り付けて,逆方向に走らせたと伝えられている。リーウィウスによれば,「すべての人々はかくもおぞましい見せ物から目をそらした」のであり,この刑罰はローマの歴史上例のないほど残酷なものだと述べている(『建国史』第一巻第二十八章)。

 中国の戦国時代や日本の中世に行われていた車裂きは,古代ギリシア・ローマの文化圏においては,どうやら珍しいものだったようである。メッティウスの死にかんするエピソードは,どのように形成されたのか。以下,この問いの解決の糸口を探ってみたい。

 R. G. Ogilvieは,リーウィウスの上記のコメントに かんして,車裂きはゲルマニア人のあいだには存在した風習だが,ローマの刑罰史にはまったく類例がないと述べている(A Commentary on Livy, Books 1-5, Oxford 1965, 120)。そして類例の不在を根拠に,この刑罰のエピソードがきわめて古いものであり,ローマの成立以前に遡る伝承に属していると考える。

 Ogilvieが紹介している例の一つは,13世紀中頃に書 かれた『梟と夜鳴き鴬The Owl and the Nightingale』 の一節(1062行)であり,そこでは梟が夜鳴き鴬に対して「荒馬に引き裂かれるぞ」と罵っている。これは彼が挙げる別の例,アレクサンダー・ネッカム Alexander Neckam(12世紀中頃の生まれ)著『事物の本性についてde Naturis Rerum』の一節(第一巻第五十一章)を暗示し たものであろう。この章でネッカムは,「どうして鳥のなかでももっとも歌うことに秀でた高貴な存在が,テーセウスの息子ヒッポリュトスのように馬に裂かれることに値したことだろうか」と述べ,「ある兵士が嫉妬のあまり夜鳴き鴬を四頭の馬で引き裂くように命じた」ことを引合いに出している。

 ネッカムの上記の一節が,いったいどんな作品を踏まえたものなのかはわからない。「ヒッポリュトスのように」と彼は言うものの,ヒッポリュトスは疾駆する馬車から転落し,そのまま引き摺られることによって身体が引き裂かれたのであって,厳密に言えば車裂きにあったのではない。ギリシア神話における車裂きの例は,ごくわずかしか確認できない。プルータルコスに帰された『小対比伝Parallela Minora 』(第七節)においては, メッティウスの処刑のエピソードに並んでエウボイアの王であるピューライクメースのエピソードが紹介されている。これによれば,ヘーラクレースがまだ若いころエウボイア軍を破り,王の身体を馬に縛りつけ二つに裂き,埋葬させずに放置したことになっている。もっとも,ピューライクメースの処刑エピソードを伝えるのは『小対比伝』のみであり,この著作に顕著な捏造の傾向を考慮に入れると,本当にこのような伝承が存在したかどうかは疑問である。また並列されているメッティウスのエピソードも,通常のヴァージョンとは異なり,彼はトゥッルスに捕えられたとき,宴席で酩酊していたと言われているのである。対比伝という作品の性格に即し,ピューライクメースのエピソードがメッティウスのエピソードに合わせて恣意的に作りだされた可能性すら否定できない。

 それでは,メッティウスの処刑方法はギリシア・ローマの神話世界を通じてまったく稀有なものであった,と言いうるだろうか。唯一車裂きの可能性を示唆していると思われるのは,アポッロドーロスが伝えているエピソード(第三巻第五章第一節)である。トラキアの王リュクールゴスは,ディオニューソスを侮辱しこの神に対する信仰を弾圧したので,臣民の抵抗に遇う。彼らは王をパンガイア山に連れてゆき,そこに縛り付ける。そして王は,「ディオニューソスの思惑どおり,馬に滅ぼされて死んだ」と言われている。もちろん,「馬に滅ぼされて」という語句は必ずしも車裂きを意味しない。しかしながら,同じようにディオニューソスに対する崇拝を蔑ろにした英雄たち(ペンテウスやオルペウス)がこの神を信仰し,狂気を帯びた女たちによって八裂きにあったことを考えあわせれば,ここでアポッロドーロスがトラキアの王の車裂きのことを言っているとみることも充分可能である。メッティウスの処刑エピソードの形成過程を解明するには,この例が示すとおり,ディオニューソス神話との接点が重要なのかも知れない。

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  ガレー船の誘惑

   松本 典昭

 バロックの巨匠ルーベンスの傑作《マリ・ド・メディシスのマルセイユ上陸》(1622〜25年, 394×295cm, 油彩, ルーヴル美術館)は, 誰でも知っている名作である。これはリュクサンブール宮殿を飾っていた《マリ・ド・メディシスの生涯》という巨大な21点の歴史画連作中の第6図。第2代トスカーナ大公フランチェスコ1世の娘マリア・デ・メディチ(25歳)が,1600年にフランス王アンリ4世(47歳)のもとに嫁いで来たときの場面である。

 青いマントの「フランス」と城壁型の冠を被った「マルセイユ」がうやうやしく花嫁を出迎え, 中空では有翼の「名声」がラッパを鳴り響かせ, 海中では海神ネプトゥヌス, その従者の老プロテウス, ホラ貝をふくトリトン, そして豊満な裸体の海の精ネレイスが, めくるめくばかりの色彩と躍動感をもって描かれている。とまあ, ここまではどんな美術書にも書かれていることだ。

 問題は, 画面の左3分の1を占める船尾である。この木造船について解説した美術書を私は寡聞にして知らない。じつは私もサント・ステファノ騎士団の歴史を調べる過程で偶然に出会うまでは, その船の正体を知らなかった。花嫁をリヴォルノからマルセイユまで運んだ船は,「半月旗を掲げる船」と戦うためにメディチ家が創設(1562年)したサント・ステファノ騎士団の所有になるガレー船「カピターナ・ヌオーヴァ号」である,と。

 なるほどアーチ状の覆いにはメディチ家の紋章が掲げられ, その紋章の下には黒い甲冑姿も凛々しい髭の騎士が立っているではないか。彼は艦長の騎士マルカントニオ・チェレファティに違いない。同乗した騎士と船員と兵士と漕ぎ手の数百名を統率する有能な指揮官の矜持がよく表れている。だが胸の「グラン・クローチェ(大十字)」がまずい。八つの尖角をもつ変形白十字の紋章, これはマルタ騎士団のものであってサント・ステファノ騎士団のものではない。ステファノ騎士の紋章は, 同形ではあるが白十字ではなく赤十字でなければならない。色彩構図上の画家の意図的な変更でないとすれば, おそらくは他人の素描をもとにした画家の迂闊な勘違いであった, と想像することも不可能ではなかろう。

 そんな杜撰な画家ならば, この見事な彫刻の施された船尾もあやしい, と一応は疑ってみる必要もあろう。ところがミケランジェロ・ブオナローティ・イル・ジョーヴァネが著した「カピターナ・ヌオーヴァ号」の実見記録を読んでみると, 船体の見事な彫刻もアーチ状の覆いも, その覆いに取り付けられたメディチ家の紋章も金色の巨大な船尾灯も, 画家の空想の産物ではないことがわかる。むしろ実物は絵画作品をもしのぐ豪華さだったことが実見記録からは,わかるのである。

 船体は「人物, 仮面, ハルピュイア, そして動物と植物が浅浮彫や高浮彫で分割された多くの矩形に見事にデザインされてぐるりと彫りつくされ, すべてに金箔が貼られていた」。「王たることを示す気高く堂々たる王族旗」の他に, 「各種の織物に豊かに装飾された指令旗, 長大な三角旗, 長旗, 軍艦旗など, その数60枚ばかりが満艦飾に高々と掲揚されていた」。漕ぎ手の服は「豪華な緋色だった」。「しかし豪華絢爛の極みは船尾にこそあった。優雅な半円筒ヴォールトにおおわれた船尾には,磨きがかけられ, 金箔が施され, 蔓棚のように組合わされたブナのアーチ」があり, 「それは全体に彫刻が施された見事な作品というべきもので, その外側の頂きには王女の美しい紋章」が飾られていた。半円筒ヴォールトは「エナメルを塗った金の象眼に非常に高価な, その数250にもおよぶ宝石類で装飾されていたが, その宝石類 とはバラスルビー, サファイア, エメラルド, トパーズ,緑玉髄, カンラン石, アメジスト, 真珠であった」。船尾の座席部分も「インド葦, 黒檀, 象牙, グラナティリヨ, そして様々な大きさの真珠母, 紅玉髄, ラピスラズリ, アメジストの破片等」で飾られていた。船尾の扉のひとつには「ラピスラズリ, トパーズ, サファイア, ルビーでできた王と王妃の紋章が取り付けてあった」。「このように, 覆いや日除けテントやその他のたくさんの道具類について数えあげるならば, きりがない」。

 まるで遊弋する宝石箱である。このようにサント・ステファノ騎士団のガレー船は, たんなる軍船ではなく, ときには貴人護送用の超豪華客船にもなりえた。ここには反機能主義的な美学の極致が見られる。近代的な軍事機能とは両立しがたい前近代的な芸術的装飾の存在。両立しがたいものが両立しているところにこそ, 近代的であると同時に前近代的な16〜17世紀という時代の精神が反映されている, といえばいえなくもない。

 さて私はといえば, この記録を読んで溜息は出たが, こんな船には乗りたいとは思わなかった。むしろ紺碧の大海原の水平線に宝石箱を発見したときの, 「半月旗を掲げる船」の舳先に潮風を受けて立つバルバリア海賊の胸の高鳴りを覚えないではいられなかった。

 波よ砕けろ。風よ飛べ。

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 地中海人物夜話

16世紀の秘密エージェント

−−ジョヴァン・フランチェスコ・ロッティーニ−−

北田 葉子

 16世紀の半ば頃にフィレンツェやローマを中心に活躍した,ジョヴァン・フランチェスコ・ロッティーニという人物がいる。彼は『市民の知恵』という著作を残しており,これは,フィレンツェの政治思想を扱った著作の中で時々引用されている。この作品は,政治から日常的な人間関係まで様々なテーマについて書いた一種の覚書であるが,現代の研究者の評価は低い。「平凡」「深みがない」「独創性がない」とかなり酷評され,彼の著作は「長ったらしいおしゃべり」に過ぎないとまで言う研究者もいる。私はフィレンツェのマルチェリアーナ図書館にある『市民の知恵』の初版(フィレンツェ,1574年)を見たが,その最後のページの“IL FINE"の後には,誰かが手書きで「たわごとの」(delle coglionerie)と付け加えてあった。

 このように現在では,二流の思想家として片付けられてしまうロッティーニであるが,その「平凡」な著作とは裏腹に,彼の人生は波乱万丈,これこそルネサンス人といった感じである。そこで,分かっている限りでの彼の生涯を紹介してみたい。

 ロッティーニは1512年にヴォルテッラで生まれた。ある研究者によると,彼は子供のときから「ある恥ずべき悪徳のために」,「まくら」というあだ名で呼ばれていたという。男色の暗示であると思われる。17歳の時に痴情がらみで殺人を犯したとして告発され,翌年,故郷のヴォルテッラを出て,ローマへと向かう。ローマに1年滞在しているうちに,彼は首尾よく聖職者になることに成功する。その後シエナに行って,3年間哲学を勉強した後,北イタリア各地を放浪する。まずパヴィア,ボローニャと移り住み,パドヴァに滞在するが,ここではまた殺人の罪で告発され,あわてて逃げ出さざるをえなくなっている。こうしてパドヴァを逃げ出したロッティーニは,今度はミラノへ向かう。そしてどうやってかは分からないが,1538年,彼が26歳の時には,枢機卿イッポリト・デ・エステに仕えている。その翌年,彼はトレントにいたとされているが,ここには数ヶ月しか滞在していない。というのも,今度は偽造の罪で告発され,また逃げ出さなければいけなくなったからである。次に彼が向かった先はヴェローナで,ここでは,まずある司教に仕えた後,カミッロ・オルシーニ司教に仕えるようになり,ロッティーニはこの司教に同行して,ドイツを旅行している。1540年ごろ,つまり28歳の時に,彼はイタリアに戻ってきた。まず,ヴェローナ,そしてパドヴァと滞在した後,彼はフィレンツェにやって来て,フィレンツェ公であるメディチ家のコジモ1世に仕えることになるのである。

 ある研究者の言葉を借りれば,ロッティーニは「特別の秘書,陰謀や犯罪の道具」として,コジモに雇われたという。現代的に言えば,一種のスパイ,秘密エージェントのようなものであろう。ロッティーニと同時代の歴史家たちによれば,彼は「大胆で,向こう見ずで,あらゆる悪徳に染まっていた」らしい。コジモは彼を,教皇パオロ3世やミラノの宮廷への使節として使っているが,どのような任務を果たしたのかは知られていない。しかし,ひとつだけ,彼のした仕事として有名なものがある。1548年,彼はヴェネツィアに派遣されるのであるが,この時の任務は「暗殺」であった。コジモ1世の前の公爵であるアレッサンドロ・デ・メディチは,同じメディチ家のロレンツォ・デ・メディチという人物に暗殺されており,このロレンツォ――軽蔑的にロレンザッチョと呼ばれることが多い――は,ヴェネツィアに隠れ住んでいた。彼を暗殺することが,ロッティーニの任務だったのである。そして2月26日,ロッティーニの雇った殺し屋たちは,みごとにロレンツォ暗殺に成功している。このロレンツォの生涯と暗殺については,ミュッセが『ロレンザッチョ』で戯曲化している。

 ところがこの暗殺成功の翌年の1549年,彼は男色の罪でフィレンツェから追放されてしまう。もっとも,彼がメディチ家の後ろ盾を失ったわけではない。彼はコジモに秘密裏に仕え続けていたという。メディチ家の敵であった枢機卿ニッコロ・リドルフィがローマで死んだ時は,彼の仕業ではないかと疑われたらしい。また,1559年にローマでコンクラーヴェが行われた時には,フィレンツェのエージェントとして出席している。しかも彼はメディチの庇護のもと,教皇庁でキャリアを築き,教皇庁書記長にまでなる。男色やルター主義の疑いをかけられ,メディチ家と仲の悪い教皇パオロ4世の時代には,反逆罪で捕らえられ,拷問にもかけられたが,パオロ4世が死んで,メディチ派の教皇ピウス4世が即位したことで救われる。それどころか,ピウス4世は,彼にコンヴェルサーノの司教の地位を提供する。ロッティーニは,理由はわからないがこれを断り,その後,故郷ヴォルテッラ,フィレンツェ,ローマを転々としながら過ごし,1572年,ローマでその波乱万丈な60年間の人生を閉じた。

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*『地中海学研究』バックナンバー(No.I〜XVII)

 バックナンバーをご希望の方は,事務局へご連絡ください(各号1部3,000円+送料) 。

 XVIII号以降は次回に掲載します。

●I(1978):中山恒夫「東洋から西洋へ−−ウェルギリ ウスの場合」細井敦子「ヘロドトスにおけるKunstprosa−−Hdt.1.201-216 を対象として」Clifford Weber「Gallus' Grynium and Virgil's Cumae」中山典夫「白地レキュトスに描かれた墓標の研究(上)」田辺保「シモーヌ・ヴェイユと地中海文明圏のヴィジョン」鈴木杜幾子「書評 E.H.ゴンブリッチ−−近著『アペレスの遺産』を中心に」

●II(1979):荒井献「シモン派のグノーシス主義と『魂の解明』」Vincenzo Tusa「Archeologia e Storia nella Sicilia Occidentale」中山典夫「白地レキュトスに 描かれた墓標の研究(中)」関隆志「古代ギリシアにおけるデザインの基礎」馬渕明子「書評 セオドア・レフ『エドガー・ドガのノートブック』及び『ドガ・芸術家の精神』をめぐって」

●III(1980):鈴木秀夫「地中海地域における風土の変 遷と人間の歴史」田島学・陣内秀信「イタリア都市形成史研究」Madoka Suzuki「La Collection Egyptienne de l'Universite de Kyoto」中山典夫「白地レキュトスに描 かれた墓標の研究(下)」戸口幸策「書評 L'Ars Nova Italiana del Trecento IV, Centro di Studi-Certaldo, 1978」松本宣郎「書評 『初期キリスト教とローマ帝国社会』−−R.M.Grantの近著から」

●IV(1981):竹部琳昌「ソポクレスのイロニー」小川正広「ウェルギリウスとローマの起源−−『アエネイス』後半について」天野千佳子「伝・ユークリッド著『カノンの分割』と音程比理論」高橋裕子「ルーベンスとイタリア」武谷なおみ「レオナルド・シャーシャの告発と希望−−イタリアはシチリア化している」岩倉具忠「書評 De vulgari eloquentia, Dante Alighieri, Opere minori II Classici Ricciardi,1979」 坂本賢三「書評 Shuntaro Ito, The Medieval Latin Translation of the Data of Euclid」

●V(1982):丹下和彦「東と西−−アイスキュロス『ペ ルシア人』の場合」日高健一郎「キリヤコスからフィラレーテへ」Saburo Kimura「Etudes sur Diogene Jetant son Ecuelle de Nicolas Poussin」玉野井麻利子「カタロニ アの地主・小作人関係−−ベサルからの報告」饗庭孝男「二つのシトー会修道院」石田智子「近代ギリシア史学史」本村凌二「書評 Paul Veyne Le Pain et le Cirque--Sociologie historique d'un pluralisme politique」

●VI(1983):丹司正子「チャタルフユックの偶像−−その意味についての一考察」青柳正規「プリマ・ポルタ出土『アウグストゥス像』について」桑原則正「航海と罪−−セネカ『メーデーア』301-79の周辺」篠原田鶴子「フーケ作「シュヴァリエの時祷書」の二段構成について」加藤晃規「移住にみるイタリア人の住環境−−ヴェネトからリオ・グランデ・ド・スルへ」辻成史「書評 辻佐保子著『古典世界からキリスト教世界へ−−舗床モザイクをめぐる試論』」

●VII(1984):Shigetoshi Osano「Di Nuovo Rogier van der Weyden in Italia」Shuji Takashina「Balzac's Le Chef-d'oevre inconnu 」和田忠彦「イタリアの中の アメリカ−−もうひとつのコスモポリチスム」細井敦 子「リュシアス作品写本整理の試み」佐藤徹「ギリシアの数学的諸学と自然学」辻成史「書評 辻佐保子著『古典世界からキリスト教世界へ−−舗床モザイクをめぐる試論』(二)」

●VIII(1985):Masaaki Kubo「Sappho-Ovidius-Renaissance」本田誠二「ガルシラソ・デ・ラ・ベガと人間的自由について−−スペイン・ルネサンスに関する一考察」木島安史「地中海世界の都市住居概観−−カイロ市に残る邸宅遺構を中心として」松本宣郎「書評 L.Casson, Travel in the Ancient World」Caterina Limentani Virdis「 書評 L.Castelfranchi, Vegas Italia e Fiandra nella pittura del Quattrocento 」

●IX(1986):青柳正規・本村凌二・鈴木董・長尾重武・陣内秀信「地中海都市の文化構造」若桑みどり「シビュラ(巫女)の研究(part 1)−−ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂のシビュラについて」宮崎克己「セザンヌの静物モチーフ−−瓶と林檎をめぐって」鈴木杜幾子「書評 新古典主義の復権と近年のダヴィッド研究について」

●X(1987):勝又俊雄「LMIB期の「マリン・スタイル」土器の意味−−祭儀におけるその 使用」金澤良樹「ヘレニズムのエジプトに於ける土着文化および社会の変容と不変容」澤井繁男「カンパネッラ『ガリレオの弁明』」吉川節子「マネと近代静物画」三野博司「地中海の霊感−−ヴァレリーとカミュ」石原郁子「父・怪物から歴史へ−−ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』の「怪奇映画」性とそれから」松田智雄「南への憧れの回帰」小林標「書評 Eva C.Keuls The Reign of the Phallus--Sexual Politics in Ancient Athens」片山千佳子「書評 ルネ サンス音楽の知られざる二つの側面」

●XI(1988):Tohru Sato「The Merits and Demirits of ‘τα μαθηματα'」荒川裕子「J.M.W.ターナ ーの歴史表現−−異教的世界からキリスト教世界へ」桜井博章「作品と名詞の絆を索めて−−F.Mistral: Mireio の場合」高橋裕子「書評 R.L.ピセツキー著『モードのイタリア史−−流行・社会・文化』」小堀巖「書評 M.Barcelo et alii Les Aigues Cercades: Els qanat(s) de l'illa de Mallorca」

●XII(1989):福井泰民「アナト・アシェラ合体神の可 能性−−ウガリット出土象牙製寝台パネル・レリーフ授乳女神の予備的考察」谷一尚「前2千年紀中葉の東部地中海域におけるガラス珠製作とその交易」大芝芳弘「『アエネーイス』のトゥルヌス像」石川清「フィレンツェ初期ルネサンスの建設活動におけるミケロッツォ・ディ・バルトロメオの役割」Atsushi Miura「Le portrait de M.Desboutin par Manet et le probleme de la representation de l'artiste」青柳正規「書評 Filippo Coarelli, Il Foro Romano」

●XIII (1990):松本宣郎「古代末期地中海世界とキリ スト教−−心性史的考察の試み」篠野志郎「6世紀のビザンツ帝国東方領に於ける都市概念−−プロコピウス『建設について』に現れる戦略拠点としての都市」安發和彰「エル・エスコリアルのベアトゥス写本挿絵−−《第五のラッパの審判》について」天野知香「「キュビスムと装飾」試論−−装飾/芸術をめぐる言説1890〜1914」上村清雄・小佐野重利「<研究動向>シエナの芸術−−1980年代のイタリアを中心として」三浦徹「<研究動向>イスラムの都市性をめぐって」坂本勉「書評 Zeynep Celik, The Remaking of Istanbul--Portrait of an Ottoman City in the Nineteenth Century」

●XIV (1991):廣瀬三矢子「フォルム・ロマーヌムのアウグストゥスの凱旋門に関する一考察−−1985年以降の再調査報告をもとにして」丸山弓子「17,18世紀フランスにおける音楽劇の一断面−−オペラ・バレのプロローグ考察」矢野陽子「盲目のホメロス−−新古典主義絵画における一芸術家像」戸部順一「追悼 桑原則正氏の学問」若桑みどり「書評 青柳正規著『古代都市ローマ』」

●XV(1992):Rui Nakamura「The Dual Structure of the Odyssey Frieze」Hidemi Takahashi「References to the Blessed Virgin Mary in Early Christian Latin Verse」太田敬子「11世紀の北シリア山岳部族の運動−−Nasr b.Musaraf al-Rawadifiの活動について」徳橋曜「中世イタリア商人の覚書」岡田哲史「ロードリとピラネージの建築論−−18世紀モデルニズモを巡る論考」馬場恵二「書評 飯尾都人訳パウサニアス著『ギリシア記』」鷹木恵子「書評 E.ゲルナー著『イスラム社会』」

●XVI(1993):羽田康一「絵画<Andromeda>の歴史」菊地章太「12世紀のサン・ペドロ・デ・ローダ修道院とその工房」宮本恵子「16世紀オスマン朝装飾写本『スレイマン・ナーメ』挿絵様式と工房制作の問題について」Mako Yoshizumi「Caravaggio's 《Stigmatization of St.Francis》 in Hartford: A Reconsideration of its Iconography」本村凌二「研究ノート チェスター:ローマ 帝 国北辺の地中海都市」森雅彦「書評 小佐野重利著 『記憶の中の古代−−ルネサンス美術にみられる古代の受容』」

●XVII(1994):長田年弘「アエミリウス・パウルス騎馬像付属の浮彫りフリーズに関する一考察」益田朋幸「聖ニコラオスたちの島−−リキア地方のビザンティン遺跡と聖ニコラオス信仰」末永航「描かれたウィトルウィウスの世界−−『建築十書』イタリア16世紀版の木版挿図」大月康弘「書評 高山博著『中世地中海世界とシチリア王国』」

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